2025/04/27 -三重・メッセウイングみえ- 前置き(中日本ボクシング観戦記) ボクシング選手名鑑ピックアップ!
コロナの時期から始まった、「一般人の生配信」。
毎年、選手になんらかしらの賞を贈っている。
2024年はラストイヤーだったこともあり、sakanaさん特別賞を準備した。
ずっと撮影してきた sakanaさんに2名の選手を選出してもらった。
そのうちの一人が、濱口 人夢(市野)。
ちょうど引退式があるということで、
記念のトロフィーを渡させてもらえるようお願いした。
濱口 人夢(市野)は僕のことが嫌いだった。
他の選手は取り上げるのに、自分は取り上げてもらえない…。
そんな思いからだったそうだ。
僕が初めて、ボクシング関係者に顔バレした場面。
中村 祐斗(市野)に見つかり、黙っておいてくれと頼んだにもかかわらず
5分後には市野会長を筆頭に、市野ジムの選手たちが集まり
市野会長から、「三重の興行にも来てください」と言われた。
中日本の興行すべてを観戦して回るきっかけになった出来事としてよく話すエピソードだ。
実はこのとき、会場に濱口もいたそうだが、あえて来なかったそうだ。
ちょっと不貞腐れていた当時の濱口が思い浮かぶ。
僕は撃たせすぎて雑に見えた濱口が嫌いだった。
試合中のパフォーマンスも、あまり受け入れたくないように思えていた。
しかし、刈谷あいおいホールで行われた、深蔵 和希(HEIWA)戦で僕は撃ちのめされる。
刈谷が揺れに揺れた怒涛の撃ち合い。
あれを見せられて、好きにならないなんてあり得なかった。
さらに、ある4回戦ボクサーの1RKO負けを笑う声に僕が怒り心頭していたとき、
突然、一緒に怒り始めたのが、濱口だった。
僕は一介のファン…顔がない自分は敵を作ろうがなんだろうが関係ない。
濱口は現役のボクサー…敵を作らないに越したことはない。
ただ、そんなことは全く顧みず、一緒になって怒ってくれた。
思えば、これが僕と濱口のファーストコンタクトだったように思う。
その後、広島に移り住んだ濱口。
「広島でボクシングを続ければいい」と伝えたが、
「僕は市野会長の下じゃないとやれない」とかたくなだった。
結局5年後、復帰したのは三重に戻ってきてからのことだった。
以降、彼の試合は「配信時代」とも相まって、全国的に知られることとなる。
ぶっとんだ変則ボクシングで、毎回面白い試合を提供していく。
これまで、中日本の現地で観戦するファンだけに知らせた存在だった濱口。
全国各地に濱口ファンが現れ、その名は全国へと広まっていった。
濱口は僕のことを「自分を有名にしてくれた」と言う。
僕は、見つけてもらえていなかっただけだった濱口が、
配信時代の中で正当な評価を受けるようになった…と思っている。
引退式後にトロフィーを渡させてほしいとのお願いへの返答は、
「引退式でリングに上がってほしい」との内容だった。
その選手の最後の舞台、謙遜したり遠慮したりしている場合ではない。
自分が求められるなら、できる限りのことは叶えたい。
光栄な立場をもらえることに感謝して、試合当日を迎えた。
ここでいつもの前置き
自分はファンではあるが、熱狂的なマニア程の肥えた目を持ってはいない。
自分より凄いと思えるファンはそこらじゅうに転がっている。
ここに書く内容に誤りが多分に含まれることもある。
先に言い訳をしておきたいわけではなく、そういうものだと言っておきたい。
同じ試合を見ていても、違う感想を持つファンもいるわけで…。
ここに書いたことが正解ではないと…。
それだけは認識した上で、読み進めていただきたい。
引退式では、濱口の母が、
「一番弱いA級ボクサー、だけど一番愛されたA級ボクサー」と言葉にした。
応援してくれた人への感謝がこもった”愛された”という言葉。
この言葉を否定できる人はいない。
母がその言葉で、濱口を正真正銘の一番にしたように思えた。
拍手の鳴りやまないテンカウントゴング。
濱口人夢は、チャンピオンとは別の「目指す場所」の一つになったように思う。
濱口みたいになりたいと思う選手がきっと現れる。
世界王者を目指すだけがボクシングではない。
何を目指し、何を望んでリングに上がるのか。
選手それぞれに美学とボクサー人生がある。
試合開始のゴング。
この日もまた、その1話1話が試合として演じられる。
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